「あなた」=僕を含んだ誰でもないどこかの誰か
世の中の色んな人を思う時、
「どのように他人に思われるか」ばかりで「どのように自分が思うか」が足りてないように思う。
おそらく、判断できるほど信じるに値する自分がいないからだろう。
しかし違う場所では、初めて自転車に乗った子供のように「こうだ!一歩も引かないぞ!俺は俺を貫き通すんだ!」とはしゃぎすぎてしまっている人もいる。
自分が凄い人にでもなったつもりなんだろう。
みんな自分のテロワールの中で価値観を養って、自分のテリトリーの中で発言をしていく。あなたはあなたの人生が、そしてあなたにしか見えないものがある。
時にそれはあなたにとって、他人から気づかれない苦しみにもなる。
こんなに苦しいのに分かってもらえない、こんなに嬉しいのに分かち合えない。
そんな悲喜こもごもを繰り返す枷でもある。
道に迷った時、あなたはもしかしたら何かヒントを探そうと誰かの言葉に頼るかもしれない。
「細かいことは気にしなくていいんだよ!突き進め!」という言葉もあれば
「ディテールにこそ神は宿る」という言葉もある。
その中で自分に一番フィットする言葉を選んで、自分に納得したいあなたもいれば、
あえて自分を奮い起こすため、自分とは遠い精神性の言葉に惹かれるあなたもいたりする。
結局、色んな教えや、格言ぽい言葉や、アドバイスをどう判断するのかはそのまま鵜呑みせず、咀嚼できる顎がなきゃ消化できない
それを噛むも噛まないも、あなたが決めること。
口開けたまんまじゃ入らない。
そしてルーティンに支配されず、どこか生活に新しい発見を見つけれた方が、きっとあなたを救う何かになると僕は思う。
仕事が決まりきってても、何か他で補って新しいものを見つけたり、そしてそれが楽しめたらより良い。
僕がこう言っているのは自分自身に対して再確認しているフシがある。
わかる人は僕と近い心境なんだろう。ただ、それだけであって、みんな違うように僕とあなたもまるで違う。
僕はずっと昔に、フルアルバムは三枚までと言っていたことを覚えている。
「なんであんな事言っちゃったかなあ」と思うこともあるけど、ちゃんと思い出せば分かるんで、結局悔やんじゃいない。
一つは、色んなことを頭の中で算段して、きっと全力で三枚作ったらもう音楽に飽きるというか、出し尽くすんだろうと思ってたからだった。
でも実際はもっとアイディアが増えてった。
もう一つは自分が元気で居れると思えていなかった。
あの時に育った環境、あの時に感じていた景色というのはそうだったから仕方ない。怖いなとも思う。本当にそう思っていたから。
本当にそう思っていたから今はしない決断もできる気でいた。
それが望んでいたい未来であろうがそうでなかろうが。そうなるだろうと、あの自分の視野で決めていた。
僕はそれを無知とは思わない。だって未来だから。知り得ないことは知れない。
僕は思う。
希望は必要だし、諦観も必要だと思う。(諦観というと響きが悪いがある意味の受容)
どちらかに振り切って生きれたら、そりゃ考えなくて済むし、バカで気持ちいいものだ。
でも人生の中で起きていく事象は、それぞれ違う性格を持っていて、全部「極端」で片付けられるものじゃない。一辺倒の正義で片付くものじゃないと思う。
キザでこう言うんでなく、何かあってこう言うんでもない。
あくまで今の自分がそう思って言っている。それはまた後日、別事象では発言が変わることも分かっている上で言っている。
だって僕は「生きよう」という言葉を聞きたい時も有れば、その言葉が重荷になる時もあるから。
西に沈む太陽を見て出る感想と東の空を見て出る感想が違うように、どこを見ているかで言葉は変わる。
1つの素敵な言葉で全部片付くほど当たり前に簡単じゃない。
そして自分が移ろうだけでなく、周りも移ろう。だからこそ、僕は「極端」に憧れる人を残念に思う。
音楽の世界にも残念ながらそういう場面がある。
真面目な人だからこそ、キチガイに憧れてしまうような人がいる。
でも大抵の場合、キチガイは至極真面目なつもりでいる。
そこを置いといて根が真面目な人同士がキチガイの品評会を行うようなサーカスも、僕はとても悲しく思う。
もっと極端以外の世界も見れた方がいい。明らかに視界が狭いから。
時には自分の中のなんらかのコンプレックスの悪戯が自分をそうさせることもあろうし。
希望を求めて彷徨って、そして「ダメだ。はあ。」と息を吐く時、「クソだな。まあそれも人の世さ。」と諦められることも、僕は大事なことのように思う。
極は楽だ。
極楽だ。
だがそんなものは人の世にはない。
あるならもっと遠くだ。少なくともここじゃない。
そしていまのところ結局は、どう楽しんでやろうかって考えるのが自分だ
それは根源が希望を求めるだからだと思う
以上の真面目な話を兼ねて、また次はウンコの話もするかもしれないね
でもそれはそれで一貫してんのさ
「どのように他人に思われるか」ばかりで「どのように自分が思うか」が足りてないように思う。
おそらく、判断できるほど信じるに値する自分がいないからだろう。
しかし違う場所では、初めて自転車に乗った子供のように「こうだ!一歩も引かないぞ!俺は俺を貫き通すんだ!」とはしゃぎすぎてしまっている人もいる。
自分が凄い人にでもなったつもりなんだろう。
みんな自分のテロワールの中で価値観を養って、自分のテリトリーの中で発言をしていく。あなたはあなたの人生が、そしてあなたにしか見えないものがある。
時にそれはあなたにとって、他人から気づかれない苦しみにもなる。
こんなに苦しいのに分かってもらえない、こんなに嬉しいのに分かち合えない。
そんな悲喜こもごもを繰り返す枷でもある。
道に迷った時、あなたはもしかしたら何かヒントを探そうと誰かの言葉に頼るかもしれない。
「細かいことは気にしなくていいんだよ!突き進め!」という言葉もあれば
「ディテールにこそ神は宿る」という言葉もある。
その中で自分に一番フィットする言葉を選んで、自分に納得したいあなたもいれば、
あえて自分を奮い起こすため、自分とは遠い精神性の言葉に惹かれるあなたもいたりする。
結局、色んな教えや、格言ぽい言葉や、アドバイスをどう判断するのかはそのまま鵜呑みせず、咀嚼できる顎がなきゃ消化できない
それを噛むも噛まないも、あなたが決めること。
口開けたまんまじゃ入らない。
そしてルーティンに支配されず、どこか生活に新しい発見を見つけれた方が、きっとあなたを救う何かになると僕は思う。
仕事が決まりきってても、何か他で補って新しいものを見つけたり、そしてそれが楽しめたらより良い。
僕がこう言っているのは自分自身に対して再確認しているフシがある。
わかる人は僕と近い心境なんだろう。ただ、それだけであって、みんな違うように僕とあなたもまるで違う。
僕はずっと昔に、フルアルバムは三枚までと言っていたことを覚えている。
「なんであんな事言っちゃったかなあ」と思うこともあるけど、ちゃんと思い出せば分かるんで、結局悔やんじゃいない。
一つは、色んなことを頭の中で算段して、きっと全力で三枚作ったらもう音楽に飽きるというか、出し尽くすんだろうと思ってたからだった。
でも実際はもっとアイディアが増えてった。
もう一つは自分が元気で居れると思えていなかった。
あの時に育った環境、あの時に感じていた景色というのはそうだったから仕方ない。怖いなとも思う。本当にそう思っていたから。
本当にそう思っていたから今はしない決断もできる気でいた。
それが望んでいたい未来であろうがそうでなかろうが。そうなるだろうと、あの自分の視野で決めていた。
僕はそれを無知とは思わない。だって未来だから。知り得ないことは知れない。
僕は思う。
希望は必要だし、諦観も必要だと思う。(諦観というと響きが悪いがある意味の受容)
どちらかに振り切って生きれたら、そりゃ考えなくて済むし、バカで気持ちいいものだ。
でも人生の中で起きていく事象は、それぞれ違う性格を持っていて、全部「極端」で片付けられるものじゃない。一辺倒の正義で片付くものじゃないと思う。
キザでこう言うんでなく、何かあってこう言うんでもない。
あくまで今の自分がそう思って言っている。それはまた後日、別事象では発言が変わることも分かっている上で言っている。
だって僕は「生きよう」という言葉を聞きたい時も有れば、その言葉が重荷になる時もあるから。
西に沈む太陽を見て出る感想と東の空を見て出る感想が違うように、どこを見ているかで言葉は変わる。
1つの素敵な言葉で全部片付くほど当たり前に簡単じゃない。
そして自分が移ろうだけでなく、周りも移ろう。だからこそ、僕は「極端」に憧れる人を残念に思う。
音楽の世界にも残念ながらそういう場面がある。
真面目な人だからこそ、キチガイに憧れてしまうような人がいる。
でも大抵の場合、キチガイは至極真面目なつもりでいる。
そこを置いといて根が真面目な人同士がキチガイの品評会を行うようなサーカスも、僕はとても悲しく思う。
もっと極端以外の世界も見れた方がいい。明らかに視界が狭いから。
時には自分の中のなんらかのコンプレックスの悪戯が自分をそうさせることもあろうし。
希望を求めて彷徨って、そして「ダメだ。はあ。」と息を吐く時、「クソだな。まあそれも人の世さ。」と諦められることも、僕は大事なことのように思う。
極は楽だ。
極楽だ。
だがそんなものは人の世にはない。
あるならもっと遠くだ。少なくともここじゃない。
そしていまのところ結局は、どう楽しんでやろうかって考えるのが自分だ
それは根源が希望を求めるだからだと思う
以上の真面目な話を兼ねて、また次はウンコの話もするかもしれないね
でもそれはそれで一貫してんのさ
2020年07月27日