バランス
聖書のヨハネ20章というところで、こんなシーンがある。
刑に処せられ死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前に現れる。それを見た弟子たちは、その場にいなかった弟子のトマスにイエスの復活を伝える。
弟子のトマスは「自分は十字架の傷痕を目にしなければ信じない」と言う。
そこでイエスはトマスの前に現れ、傷痕を見せる。
途端にトマスはひざまずいて「私の神よ」と感激する。
でもイエスは「私を見たから信じたのか?見ずに信じる人は幸いである」とトマスを戒めるっていうシーン。
これはかつて日曜礼拝で、とにかくよく聞いた句でもある。この句の教えは、要するに現実世界や流れに惑わされず、信じる人間こそが魂を救済されるというものだ。
正直言って本当にこれを実践できる人はクリスチャンの中にもそうそういない。
キリスト教を学ぶ人たちの多くは、この世に属さないよう生きる。そしてよくこう言う。「私たちの国籍は天にある。」
また、矛盾した人もいる。そう言いながらも民族のアイデンティティが先立っていたり、人を許すというキリスト的な教えから全く逆を行くような糾弾と攻撃に熱がこもる人であったり、神の祝福というものを教会の大きさと勘違いして財力を誇示したりと。
ただ、そこでそういう人たちに失望することで神様を諦めるのは、そもそも本末転倒で、そこで立ち返って、トマスにならず、人ではなく神を見ようと切り替える必要があるのがヨハネ20章の教えの本質でもあるように思う。
ここまでが聖書の考え方だとして、僕の今の考え方をこれから書く。
僕らは現実を生きている。
それは疑いの世界だ。なぜなら人は不完全だから、不完全な存在が集う社会も当然不完全で、そんな不完全な世界を鵜呑みにできるわけないからだ。
だから防衛本能的に疑い、結果を信じる。
その反対は信じる世界だ。
でもそんなのはほとんど天国のようなものだ。人の力ではありえない。
時々そんな世界に疲れて、事実ではなく、この世から離れた真実を欲する人もいる。そこで何らかの絶対的価値を探そうとしたりする。
そんな信仰と疑いを行ったり来たりする。
だから今のところ妥協として必要なのはバランスだと思う。
どちらかに全体重を乗っけるべきではない、とも思わない。
時には全体重を乗っけてもいい。
海に乗っかる船のように、その時々に合わせて帆をあげたりたたんだり、舵をきったりする感じでいいと思う。
いつかは信じる世界に身を投じたいけど、まだまだ到底無理だ。
刑に処せられ死んだイエス・キリストが復活し、弟子たちの前に現れる。それを見た弟子たちは、その場にいなかった弟子のトマスにイエスの復活を伝える。
弟子のトマスは「自分は十字架の傷痕を目にしなければ信じない」と言う。
そこでイエスはトマスの前に現れ、傷痕を見せる。
途端にトマスはひざまずいて「私の神よ」と感激する。
でもイエスは「私を見たから信じたのか?見ずに信じる人は幸いである」とトマスを戒めるっていうシーン。
これはかつて日曜礼拝で、とにかくよく聞いた句でもある。この句の教えは、要するに現実世界や流れに惑わされず、信じる人間こそが魂を救済されるというものだ。
正直言って本当にこれを実践できる人はクリスチャンの中にもそうそういない。
キリスト教を学ぶ人たちの多くは、この世に属さないよう生きる。そしてよくこう言う。「私たちの国籍は天にある。」
また、矛盾した人もいる。そう言いながらも民族のアイデンティティが先立っていたり、人を許すというキリスト的な教えから全く逆を行くような糾弾と攻撃に熱がこもる人であったり、神の祝福というものを教会の大きさと勘違いして財力を誇示したりと。
ただ、そこでそういう人たちに失望することで神様を諦めるのは、そもそも本末転倒で、そこで立ち返って、トマスにならず、人ではなく神を見ようと切り替える必要があるのがヨハネ20章の教えの本質でもあるように思う。
ここまでが聖書の考え方だとして、僕の今の考え方をこれから書く。
僕らは現実を生きている。
それは疑いの世界だ。なぜなら人は不完全だから、不完全な存在が集う社会も当然不完全で、そんな不完全な世界を鵜呑みにできるわけないからだ。
だから防衛本能的に疑い、結果を信じる。
その反対は信じる世界だ。
でもそんなのはほとんど天国のようなものだ。人の力ではありえない。
時々そんな世界に疲れて、事実ではなく、この世から離れた真実を欲する人もいる。そこで何らかの絶対的価値を探そうとしたりする。
そんな信仰と疑いを行ったり来たりする。
だから今のところ妥協として必要なのはバランスだと思う。
どちらかに全体重を乗っけるべきではない、とも思わない。
時には全体重を乗っけてもいい。
海に乗っかる船のように、その時々に合わせて帆をあげたりたたんだり、舵をきったりする感じでいいと思う。
いつかは信じる世界に身を投じたいけど、まだまだ到底無理だ。
2021年01月25日