青いギター
少々長い
何日か前、ふとした時に右足に違和感ができて、病院へ行く
「先生。なんかバランスがとれないというか、ひねったような感じなんです。」
診察台に寝て、足を曲げたり伸ばしたり、
トントンされたり押されたり
レントゲン撮って、先生が写真をじっと見る
僕も見る
しばらく沈黙が続いたあと
「なんともなっていませんが…」と先生
「え、いや、ひねったような感じなんです」
「いや、ひねった感じはなさそうです。」
「いやいや、ひねった感じしましたよ」
ひねったひねってない…のあと、「悪くないので治しようがない」というダメ押しを聞いて、首だけひねりながら帰る
でも帰る足は、やっぱりちょっとひきずっちゃう
一応休ませるように湿布をいただいたので、今貼って、部屋でもんもんとしている
そりゃ良いに越したことないけど、現に変だしなあ
ところで以前、NHKの日曜美術館という番組で、疫病と美術の歴史についてやっていた
中でもペストの話は印象的だった
かつて大流行したペストは、人々の信仰を揺らがせ、神の存在を疑わせ、神を信じるものも神を恨みだしたというような
そんな話の絵が紹介されていた
中世の西洋人にとって神の存在は今の日本人の感覚とは違って
本当に絶対的で、「在る」とされた上で、さあその人生をどう生きるかの価値観だ
だからこそ困難にあえばもちろん神を頼る
ただ、ほんと想像を絶する凄惨な現実を見ると、そんなかつての西洋人すら
「おいおい…本当に神はいるのか?あまりにも救いがないじゃないか…」と動揺し、次第に怒りや半狂乱に変わったそうだ
ただ、キリスト教の救いとは、魂の救いで
この世で死を回避できたり、受験に受かったり、商売儲かったり、好きな人と結ばれたりというような、ご利益宗教ってわけじゃないことは書いておく
僕は日本人だが、幼い頃に洗礼を受け、心から信じていた時期もある
そしてあの安心感にまた包まれたならどれだけいいか知っている
ただ僕は道を外れてしまったし、それは悲しいけど、だからといって疑いのほうが強いのは変わっていない
神の有無を考えない日は大袈裟でもなんでもなく、一日も無い
このコロナウイルスが人々の価値観をどう変えたかはそれぞれ違うだろうし、そう変わらない人もいたと思う
正直なところ、自分はこれからの音楽スタイルの変化の予兆は感じているけど、生き方は変わらないまま
結局、コロナ以前から、神はいるのかいないのかみたいな「おい頭悪いよ」って言われそうなことをずっとやっているからだろうと思う
「そんなもん答えなんか出ないよバカらしい」
「なんらか、神はいるとは思いますけど、気を楽に待つっていうのもどうですか」
「結局心の問題だよ。人は弱いから神を求めるんだ」
そういう声もさんざん聞いたし、その声を今は求めていないので、いつもなんとも話しづらい
ただ、そういう自分だから仕方ないってだけ。正直なところ育ちもでかい
今、言えることは個人的には人に宗教をすすめないし、それを正義として他を邪教だとする考えも理解しない
そもそもそれが争いの始まりなんだから
強要ほんとやめろって思う
日本で宗教の話はあまりすべきじゃないことは知っているけど、結局僕は自分の知りえるものしか書けない
もしかしたらこれを読むあなたは、僕の知り得ない他の世界の悩みを抱えているかもしれない
コンプレックスだとか(勿論それは自分にも多大にあるが)、色々
人の悩みは笑えない、笑うべきもんじゃない
それが世間的にどんだけ小さいと言われようが、その人にとってでかいんだったら笑えない
想像力の問題だと思う
木村花さんのニュースは僕も知ったし、こういう形で一人の輝いていた人を知るのは悲しいことだ
つくづく想像力だと思う
自分のことのようには思えなくても、たとえばその人が自分の親や、子供や、兄弟姉妹だったら?と想像する
何日か前、ふとした時に右足に違和感ができて、病院へ行く
「先生。なんかバランスがとれないというか、ひねったような感じなんです。」
診察台に寝て、足を曲げたり伸ばしたり、
トントンされたり押されたり
レントゲン撮って、先生が写真をじっと見る
僕も見る
しばらく沈黙が続いたあと
「なんともなっていませんが…」と先生
「え、いや、ひねったような感じなんです」
「いや、ひねった感じはなさそうです。」
「いやいや、ひねった感じしましたよ」
ひねったひねってない…のあと、「悪くないので治しようがない」というダメ押しを聞いて、首だけひねりながら帰る
でも帰る足は、やっぱりちょっとひきずっちゃう
一応休ませるように湿布をいただいたので、今貼って、部屋でもんもんとしている
そりゃ良いに越したことないけど、現に変だしなあ
ところで以前、NHKの日曜美術館という番組で、疫病と美術の歴史についてやっていた
中でもペストの話は印象的だった
かつて大流行したペストは、人々の信仰を揺らがせ、神の存在を疑わせ、神を信じるものも神を恨みだしたというような
そんな話の絵が紹介されていた
中世の西洋人にとって神の存在は今の日本人の感覚とは違って
本当に絶対的で、「在る」とされた上で、さあその人生をどう生きるかの価値観だ
だからこそ困難にあえばもちろん神を頼る
ただ、ほんと想像を絶する凄惨な現実を見ると、そんなかつての西洋人すら
「おいおい…本当に神はいるのか?あまりにも救いがないじゃないか…」と動揺し、次第に怒りや半狂乱に変わったそうだ
ただ、キリスト教の救いとは、魂の救いで
この世で死を回避できたり、受験に受かったり、商売儲かったり、好きな人と結ばれたりというような、ご利益宗教ってわけじゃないことは書いておく
僕は日本人だが、幼い頃に洗礼を受け、心から信じていた時期もある
そしてあの安心感にまた包まれたならどれだけいいか知っている
ただ僕は道を外れてしまったし、それは悲しいけど、だからといって疑いのほうが強いのは変わっていない
神の有無を考えない日は大袈裟でもなんでもなく、一日も無い
このコロナウイルスが人々の価値観をどう変えたかはそれぞれ違うだろうし、そう変わらない人もいたと思う
正直なところ、自分はこれからの音楽スタイルの変化の予兆は感じているけど、生き方は変わらないまま
結局、コロナ以前から、神はいるのかいないのかみたいな「おい頭悪いよ」って言われそうなことをずっとやっているからだろうと思う
「そんなもん答えなんか出ないよバカらしい」
「なんらか、神はいるとは思いますけど、気を楽に待つっていうのもどうですか」
「結局心の問題だよ。人は弱いから神を求めるんだ」
そういう声もさんざん聞いたし、その声を今は求めていないので、いつもなんとも話しづらい
ただ、そういう自分だから仕方ないってだけ。正直なところ育ちもでかい
今、言えることは個人的には人に宗教をすすめないし、それを正義として他を邪教だとする考えも理解しない
そもそもそれが争いの始まりなんだから
強要ほんとやめろって思う
日本で宗教の話はあまりすべきじゃないことは知っているけど、結局僕は自分の知りえるものしか書けない
もしかしたらこれを読むあなたは、僕の知り得ない他の世界の悩みを抱えているかもしれない
コンプレックスだとか(勿論それは自分にも多大にあるが)、色々
人の悩みは笑えない、笑うべきもんじゃない
それが世間的にどんだけ小さいと言われようが、その人にとってでかいんだったら笑えない
想像力の問題だと思う
木村花さんのニュースは僕も知ったし、こういう形で一人の輝いていた人を知るのは悲しいことだ
つくづく想像力だと思う
自分のことのようには思えなくても、たとえばその人が自分の親や、子供や、兄弟姉妹だったら?と想像する
2020年05月25日